おっさんずラブ

気付けば2018年もあと1ヶ月になってしまった。

歳をとるにつれて時が倍速で過ぎて行くようになったのだが、今年はやたらひどい気がする。一週間が3日くらいに感じられるのだ。こうしてあっという間に死んでいくのかと思うと激しく気が滅入る。

 

しかし2018年があっという間に思われるのは、何も年齢のせいだけではない、と思う。というのも、あの伝説的テレビドラマ「おっさんずラブ」との出会いが、私の2018年を大きく狂わせたからである。

 

今年2月に連続ドラマ化の話を聞き「なんかBLっぽいドラマが始まるらしいじゃん、楽しみだなあ」と呑気に構えていた私は、その数ヶ月後、まさかこんなに私の頭を支配することになろうとは想像もしていなかった。放送終了から半年ほど経った現在でも展示会に行き、関連情報を毎日欠かさずチェックし、主演の田中圭とその相手役・林遣都の出演作を漁りまくっている。そんなことをしているうちに周囲をドン引きさせ、自身は全く成長しないままあっという間に1年を終えてしまったのだった。

 

では一体「おっさんずラブ」とはどういうドラマなのか。

簡単に言うと田中圭吉田鋼太郎林遣都が取り合うコメディドラマである。とだけ聞くとコントのように面白おかしく同性愛を扱ったドラマだと思われがちだが、それが全くそうではない。序盤はひたすらハイテンションでコメディ要素が強いが、中盤からどんどん切ないラブストーリーが展開される。そうしていつのまにか我が事のように物語にのめり込んでしまうのだ。...深く語ろうとするとどうしてもネタバレが含まれてしまうので、ネタバレしてほしくないという方はここから下は読まないことをお勧めします。

 

簡単に説明しすぎてしまったのでもう少し詳しくあらすじ説明をすると、モテない超鈍感サラリーマン春田(田中圭)が、乙女心を隠し持つ敏腕部長・黒澤(吉田鋼太郎)とドSなイケメン後輩・牧(林遣都)に同時に好意を寄せられ、てんやわんやするという物語。そこに幼馴染のちず(内田理央)、牧の元カレ・武川主任(眞島秀和)なども参戦し、混み合った恋愛模様が展開していく。

 

このドラマで私が感動したのは、地上波・全国ネットで「恋に性別は関係ない」ということを証明してくれたところにある。

あらすじや設定上では春田が黒澤部長と牧に取り合われるというものなのだが、蓋を開ければ春田、牧、ちずの三角関係がメインで描かれている。ちずは物語中盤から春田に好意を寄せ、実質春田は牧かちずかという選択を迫られることになる。部長は突然女子高生のようになるというギャグキャラのような立ち位置にされており、シリアスに恋愛関係に介入していくという描写はあまりない。

異性愛者の春田は薄々ちずにも好意のようなものを寄せており、セクシュアリティ的に考えれば、あるいは従来の恋愛ドラマであればちずと結ばれるだろうことは明らかである。しかし、春田が最終的に選んだのは同性の牧なのだった。地上波の連続ドラマでこのエンディングは、かなり画期的である。

これが小手先で描かれていたら全く感動しないのだが、最終回まで牧の切ない片恋模様が終始描かれるので涙を流さずにはいられない。

牧は異性愛者の春田を好きになってしまったがために、春田から「男同士でキスとかマジでねぇから」などと心無い言葉を浴びせられる。心を痛めながらも何とか流れで交際まで行き着くのだが、その先でも家庭を築けないこと、社会からの風当たりが激しいことなどを考え自分から身を引いてしまうのだ。それが林遣都の演技で痛いほどの切なさが伝わってくる。春田をひたむきに愛し、春田の幸せを願って行動する牧の姿を見て、終盤では「私の人生はどうでもいいから牧を幸せにしてくれー!!」と切実に願ってしまった。

 

今まで、ドラマでは男女の恋愛や結婚が何の疑いもなく、当たり前に描かれてきた。そんなドラマ界を明るくぶち壊したのがおっさんずラブではないか、と私は感じている。同性愛者の権利保障などを取り上げた社会派ドラマやBL作品の実写化などはあったが、オリジナル脚本で、異性愛者が同性と結ばれる連続ドラマは未だかつてなかったように思う。キャリアのある実力派俳優や熱意のあるスタッフが全力で「恋に性別は関係ない」と証明してくれたからこそ、流行語大賞にノミネートされるまでにバズったのではないだろうか。

 

私自身BLを読みすぎて感覚が麻痺してしまったのかもしれないが、「恋愛感情ってすごくいい加減なものなのでは」と考えることがある。はっきり気づかないときもあるし、恋愛と友愛の間の感情だってきっとあるだろう。"恋愛は男女でするのが当たり前"だと刷り込まれているせいで、その観念に縛られすぎていることもあるかもしれない。セクシュアリティそれぞれの立場やアイデンティティがあるだろうし、それを否定するつもりはもちろんないが、恋愛対象や恋の形をワンパターンで固定してしまうのは、どうにも不自由に感じてしまう。もっと色んな感情や恋愛関係があってもいいのになあ、と思ってしまうのだ。

世の中には色んな固定概念が蔓延している。「結婚し家庭を持つのが幸せ」「彼氏彼女がいるのが幸せ」。そんな当たり前の幸せに左右されることなく、ただ「人として好きだから一緒にいたい」という究極の純愛を見せてくれたドラマがこの「おっさんずラブ」なのであった。男女の恋愛の在り方に居づらさを感じていた私は、もう"沼"にズブズブである。何がこんなに私を拗らせさせたのだろうか...。

 

 

 

 

 

おっぱい

私はおっぱいが好きである。


いきなり何を言い出すのか。わざわざブログを開設して早々高らかに宣言することでもない。しかし改めて言わせてもらいたい、私は女性のおっぱいがとても好きなのである。


物心ついた頃から、何故か私は女性のおっぱいに強く惹かれていた。しかもまだエロも何もよく分かっていない幼稚園児の頃から、どこか後ろめたい気持ちを抱いて女性のおっぱいを見つめていた。当時流行していた「カレーライスの女」という曲のPVに登場する、歌手ソニン裸エプロンから覗く脇乳を必死に見ていたのを覚えている。それくらいおっぱいが昔から好きであった。


ちなみに心身共に女性、恋愛対象は男性である。裸エプロンに興奮する傍ら、男の子に初恋もしていた。恋愛対象が女性であれば自身でも納得がいくのだが、そうではないので全くわけがわからない。しかも男性のおっぱいが好きなわけではなく、「女性のおっぱい」が好きなのだ。最早自分は女性が好きなのか、女性の身体が好きなのか、おっぱいが好きなのかわからなくなってくる。


当然、幼稚園児や小学生で「女の子のおっぱいが好き」と公言する女子はいない。ソニンのPVを母親と姉が白い目で見ていたこともあり、これは少し異常で、抱いてはいけない感情なのかと思い込んでいた。それは中学や高校に行っても払拭されなかった。女子校だったのもあり、下ネタを言ってゲラゲラ笑っているクラスメイトや友達の胸を揉んでいるクラスメイトもいたが、あくまでおふざけの一部であり、物心ついた頃から真におっぱいが好きで、その頃には男性向け二次エロ画像にまで手を出していた私にとっては、なんの救いにもならなかったのである。


そんな後ろめたい気持ちが払拭されたのは大学に入ってからのことなので、ずいぶん最近である。

大学に入ってからは、目に見えて世界が広がった。男子がいるからか、または変な学科やサークルに入ったからか、下ネタをあけすけに話すことが歓迎される。まずはそのことにひどく驚いた。女子校時代に下ネタを話していたのはクラスの中でも目立っていた存在、カースト最底辺クソ根暗オタクが言うには少し憚られた。そのため猥談がしたくて仕方がなかったのに、話せずにいたのである。そのため、下ネタをみんなが話していて、こんなに歓迎されるというのは衝撃であった。

おっぱい好きだということも、なにかの飲み会か何かで暴露したら色んな人に面白がられてもらえた。私の17年ほど抱いている異常性癖を「個性」だと受け入れてくれたのである。さらには、数多くの女性おっぱい好きにも出会えた。こんなに私と同じ人間がいたのか!と思わず涙した。中高の親友も女体が好きだったことが大学に入ってから発覚し、一気に閉ざされたおっぱい好きの道が開け、光に照らされたような気持ちになった。


また、私には男性同士の恋愛を好むという特殊性癖もあるのだが(それも後ろめたさを抱きながら好んでいた)、なんと学科の女子8割が全く同じ性癖持ち。「文学界の中でも流行で、現在熱心に研究されている」と興味を持って理解を示してくれる教授にも出会い、その特殊性癖への後ろめたさもだいぶ解消された。


好きなものを好きだと言うのは、案外難しいのかもしれない。というのも、それが他者も好きだと知っている時、受け入れてもらえるという確証を持っている時でしか告げられないからである。

自分の好きなものは、その人のアイデンティティでもあり、パーソナリティでもある。好きなものを他人に否定されることほど悲しく、怖いことはない。否定される対象が親や親友、恋人など自分に近しい相手であればあるほどその傷は深くなる。私も男性同士の恋愛が好きだということをホモフォビアが強い父には言えなかったし(バレたのち受け入れてくれたが)、おっぱいが好きなことは未だに言えていない。


しかし、好きなものを好きだと誰かに告白しない限り、自分の中で後ろ暗い感情を抱きながらそれを愛することになる。良さを誰とも分かち合えない悲しさ、ひいては誰も本当の自分を受け入れてくれないという孤独感。万人が好きだというものを「好き」だと言ったところで、自身と周りのイメージとの乖離に苦しむことになる。


もちろん、私の日々の気持ち悪いツイートでフォロワーは減少の一途をたどっているし、「まじでキモいから堂々と言わないでほしい」と思っている人も多数いることだろう。

また、好きなものを好きだと言うことは、時に誰かの「好き」を否定し、傷つけてしまう可能性もある。おっぱい好きに関しては、おっぱいに激しい憎悪を向けている人はあまりいないだろうからその心配はないけれど、それがニッチな趣味になればなるほど戦争になることは必至である。もしかしたら大事な人と大きな溝を生み出すこともあるかもしれない。


一方で、正直もう受け入れられないのは仕方がないのかな、という気もする。好きな気持ちは変えられないし、それも含めて私自身なのだから仕方ない。何事にもどんな選択をしても失うものはあるし得るものはあるのである(ちなみに男性同士の恋愛を描いた漫画『同級生』に出てくる台詞)。「好きなものを好き」だと言った結果フォロワーを失うかもしれないが、その分同志が見つかるかもしれない。何より(それがよほど犯罪に抵触しない限り)本当の自分をさらけだすことが、自分を認めるうえでも、他人と真の人間関係を築く上でも重要なのではないだろうか。


なので、私は堂々と女性おっぱい好き、オパニストとして生きていこうと思う。全てのオパニストに、全ての異常性欲者の人々に幸あれ!